湯河原・真鶴の野生生物を観察し、写真に記録すること。
7000年前に八丈島に住んだ湯浜人は神津島の黒曜石を使っていた!

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またとんでもない記事を見つけてしまった。小田静夫さんという考古学者が書いた「八丈島の先史文化」(黒潮圏の考古学)の中に、

『1978年(昭和58)2月~ 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団(団長・國學院大學永峯光一)が緊急発掘調査を行った。遺構として、竪穴住居跡2軒と屋外炉2基が検出された。遺物は、無文厚手土器、各種打製石器、敲石、磨石、石皿類であった。黒曜石が5点出土し、明大調査分16点、筆者採集分 1点を合わせても22点という、伊豆諸島先史遺跡としては極端に少ない出土量であった。黒曜石分析(鈴木正男)も行われ、産地はすべて神津島、水和層年代で7,100~6,400年前と出された(永峯ほか1984)。』

これを湯浜遺跡・湯浜人と呼ぶ。


その後、5000年前の倉輪遺跡も発見され、これには本土の縄文土器やら石器類(黒曜石/神津島産)や6軒の竪穴式住居跡が見つかり、同時に4、5軒建っていた可能性があるそうだ(200年間安定して定住したと推測している)。人骨3体(女性も含む)装飾品などが見つかっているからか。

これを倉輪遺跡・倉輪人と呼ぶ。

しかも、倉輪遺跡からはイノシシの骨がたくさん見つかり、舟でイノシシを連れてきて、放牧したというのである。また、神津島や本土へもたびたび往来してたとも。これでまた大変なことになってきた。伊豆半島から神津島どころではなくなってしまったではないか。どこまで古代の人はすごいのか。

私は前項で利島、新島、式根島、(神津島は?)は3万5000年前や2万年前は陸続きであり、下田沖に広がる陸地からおよそ20キロぐらいしかなく、小さな舟でも往来が可能と推測した。だけど、5000年前は海面が一番高い時期で、今より海が広かった。しかも、八丈島は神津島から三宅島、御蔵島と南下し、その75キロも先にあり、黒潮を横断しなくてはいけないのだ。一度三宅島沖で海が穏やかな日に黒潮の上を走ったことがあるが、遠くから見ても、黒い海面が他より1メートルぐらい盛り上がり、バシャバシャと波立っていた。流速は2〜3ノットである。

神津島の黒曜石は伊豆半島東岸の河津の遺跡に500キロほどの礫片と19キロの原石が見つかっており、ここに一度陸揚げし加工されたと推測されている。まあ言ってみれば昔の刃物を作る鍛冶屋さんみたいな人達がいたのだろう。とすれば、黒曜石を採取する人もそれ専門で、島に住み着いて舟で運んでいたのかも。関東から東海、北陸の後期旧石器時代の遺跡はすごい数だから、黒曜石の需要も大変だったと思われる。この海人の一部が晴れた日に神津島や御蔵島から見える八丈島を目指したのだろう。

八丈島から御蔵島までシーカヤックで20時間漕いで渡った人がいるが、イノシシやら土器やら女子供を乗せて八丈島まで渡る舟はそう小さいものではないように思えてきた。それに性能のよいシーカヤックで20時間かかるのなら、古代舟ならもっと時間がかかるだろう。そう考えると、やはり帆を持った舟ということになるが、風が無いときは練り櫂で漕ぐようにしてたのだろう。

この八丈島まで行き来できる舟をまた色々調べてたら、あるHPに「縄文時代の外洋船を考える」(三島里山倶楽部)というページがあり、そこに島根県松江市の美保神社の祭りに使われる「諸手船」(もろたぶね)が紹介されていて、たしかにこの舟なら外洋を走れるだろうと思えたのだ。この40年に一度造り変えられる舟は元は丸木の刳り舟だったそうだから、これが伊豆の海に浮いていたとしても不思議はない。この舟を2つ組んで双胴船とし、大きな帆をかけたら、ほぼ完璧となる。

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サバニもイタオマチプも船首、船尾とも大きく反っているし、いかに7000年前とはいえそれぐらい分かり、双胴にすればより安全で帆も大きくできるし、荷も積めると考えただろう。実際に八丈島までイノシシ数頭は運んでいるわけだし、縄文土器も割らずに多数持ち込んでいるし、大型イタオマチプか双胴船ぐらいがなくてばできない芸当だと思うのだ。
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旧石器時代日本人の南からのルートはやはりサバニで?

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沖縄の古いサバニの模型/下は2ハイを組んだ双胴舟で、長距離の航行に使われたようだ
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慶良間の博物館にある丸木舟のサバニ


3万5000年前、大海を走り回っていた舟の形が少し見えてきたような気がする。その一つはアイヌのイタオマチプの原型で、もう一つは沖縄のサバニ。どちらも丸木舟の刳り舟を船底にした準構造船で、風があるときは帆をかけている。サバニの性能の良さは小笠原で初めて見たときから分かっていたが、まさか丸木舟を使った準構造船があるとは知らなかった。

写真は「新あすくのシーカヤック風呂具」から無断で借りたものだが、たぶん丸木舟を使ったサバニの模型だろうと思う。構造の図解にあるように、船底を丸木舟にし、舷側に板を足して造ったもの。イタオマプチそっくりだが、かなり舷側に角度を付け、船首側は絞り、胴を太くし船尾も反り上がるようにしている。木製舟の原型はどれも丸木舟だろうから、サバニも当然そうだったのだ。このサバニ、よくローリングするようだが、限界まで傾いても胴の幅広の部分(舷側9で波を押さえ、復元する能力がある。
沖縄の海人はこれで外洋を走り回り、漁をしてたし、大しけに合えば、海水を入れて半沈させ、人は海へ入りつかまってやり過ごしたとか。また転覆しても起こすことができるようである。

それと、写真のような2ハイを組んだ双胴船で外洋を長距離走っていたともあったし、4ハイ連ねて、牛を運んだりもしたそうである。南洋ポリネシアあたりの舟は双胴のものが多く、外洋を広く走り回っていたそうだから、スンダランドあたりから北上して沖縄に到達した後期旧石器人もひょっとして丸木舟の双胴船を使ってたかも。それとも、フィリピンあたりで使われる小型のバンカと呼ばれるアウトリガー方式の丸木舟のようなものだったかも。

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フィリピンあたりで使われる小型のバンカと呼ばれるアウトリガー方式の舟

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田沼意次が1786年に派遣した蝦夷地調査の報告書の絵図

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発掘されたイタオマチプの船底の丸木舟の部分。穴が空いていてそれと分かる。

この方はまた北海道へイタオマチプを見に行かれ、その写真も載せられていた。海好き、カヌー好きだとやはり古代の舟が気になるのだろう。田沼意次が1786年に派遣した蝦夷地調査の報告書の絵図があったり色々取材されたようである。お借りした絵図の一つは構造がわかりやすいもの。どちらも波に強そうで、サバニに負けてない。ただイタオマチプは帆を小さくし、舟がなるべく傾かないようにしてるが、サバニは帆を大きくし、限界まで舟を傾け、より速度が出せるように考えてあると思う。これはもし転覆した場合のリスク、海水の温度差があるからだろう。日本半周の旅の途中、八戸港で漁師に北緯40度を超えて海に落ちたら助からないと注意されたことがある(まあ現代水温のことではあるが)。

前々回項目のイタオマチプが縄文時代でなく鉄器のある6世紀、弥生時代なのが分かったが、海に漕ぎ出す壁画は事実を描いたものだろう。船首、船尾の反りは荒海での使用に堪えられるもので、これだとかなり沖合まで走れたろうと想像する。それに、手にしているのはシュモク状の取っ手があり、長さから練り櫂兼舵櫂と思われ、練り櫂の能力がどれほどか分からないけど、30年ぐらい前まではこのあたりでも魯船が使われていて、漁師が昔は魯を漕いで小田原から初島ぐらいまで(片道25キロほど)行き、漁をしてたと言ってたから、かなり有効なのではないだろうか。
3万5000年前の神津島は伊豆半島から20キロと近かった!

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いま私の部屋の壁に728×1030 mm(B全)の古いポスターが貼ってあり、それは伊豆半島東南端(河津~下田~田牛)から利島、新島、式根島までの地図であり、海の深さを水深10mごとに色分けし、釣れる魚を白文字で書き込んであるもの。

これで2万年前の海水面が120m低かったときの陸地を見ると、利島、新島、式根島、神津島(たぶん、水深が途切れている)は陸続きで、下田から10数キロ沖合の神子元島沖まで陸地が広がっている。それに一番北の利島の北10キロぐらいまで陸になり、そのまた北になる大島の千波崎が伸びたところからたった10キロほどになる。

また、新島西沖には大きな「ヒョウタン瀬」と「高瀬」があり、どちらも水深の浅いところは数10メートルで、これも陸地だっただろう。高瀬と下田「神子元島」沖の水深100エリアの距離は20キロほど。高瀬と新島は陸続きではなさそうだが、たぶんん1、2キロの海峡があっただろうと想像する。

また、この海図には載ってないが、伊豆大島沖合には大きな「大室出し」と呼ばれる瀬があり、ここも多くが100メートルより浅いし、大島から房総半島の間に「沖の山」というこれまた最頂部の水深60mぐらいの大きな瀬もある。相模湾の熱海沖7、8キロには初島があるが、間が水深100mないので陸続きだったし、二宮沖10キロには水深60mの「沖の瀬」という大きな瀬があり、ここも陸地だっただろう。

3万5000年ぐらいから最氷期の2万年までの海面水位の変化を見ると、3万5000年で一度80、90mまで下り、2万年あたりで120mと最も陸地が広がっている。なので黒曜石が最初に運ばれた3万5000年あたりでは下田神子元島沖にあった広い陸地から新島沖の高瀬まで最短で20キロほどの航海だったろうと考えられる。現在の神津島は下田からでも70キロぐらいあるから、大冒険のように思ってたが、今よりかなり狭い海や利島や新島、神津島、途中に出現した島々に避難することを考慮したら、決して不可能でない船旅のように思えてきた。

それと、合わせて想像するのが旧石器人のもつ自然観察の高い能力である。この時代でも舟に乗るのは海人だったハズで、常に空や海を見て「観天望気」し、風や波がどう変化していくか予測できただろう。今の漁師はTVやネットの天気予報に頼り切っているけど、命がかかる昔の海人はあらゆる自然の兆候を見逃さなかったと思う。

もう一つ、丸木舟の準構造船はもし横転しても木だから沈没しないのがある。水温が高い時期なら数時間つかまっていれば嵐は収まるだろうし、起こせれば再び漕げるのだ。そう考えると、6、7メートルの底の浅い丸木舟でも3人ぐらいで漕げば、凪を見て2、3時間で行けるのではないか。

一番の疑問は石器時代の石で丸太を削って造る舟

しかし、まだまだ不思議は続いていて、3万5000年前から古墳時代に鉄器を使うようになるまでほぼ3万5000年間石器時代が続いていて、およそ1万5000年前の縄文時代の生活は遺跡などから少し見えてはくるものの、それ以前の2万年はどんなだったろうと思うのだ。長いよね、2万年という時は。その間にホモサピエンスの生活はどう変化していったのだろう。
沖縄のサキタリ洞遺跡から釣り鈎が見つかり、これがウナギの穴釣りに使われただろうと推測した。この貝殻を鈎の形に精巧に削り出す技術から考えると、かなり細いヤスリのような道具を使っていたことが想像される。

だけど、外洋を走る丸木舟を船底にした準構造船を作るには直径1メートル以上の大木を切り倒し、刳り貫き、舷側板を作り、穴を開けてロープで縛らなくてはならない。これを石器だけでどうやったのだろうと考えるとほんと不思議。ただ次の写真を見ていただきたい。

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左二つは石斧。その右は美しいアールの切り刄を付けた、たぶんノミやカンナのように使われるた? 右端はナイフ?

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驚くほど精巧に作られた黒曜石の石器。矢じりとされているが、石器の根元に書き込まれたナンバーからすると、かなり大きなもので、ナイフや穴空けのキリのようなような使い方をされたのじゃ、と考えた。左下のもろ矢じりの形のものも、大型だし、彫刻刀やヤリガンナのように使われたかも?

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石斧を使って木を切る実験をされていた。これ以外にも80センチと太い木も切り倒されていた。
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これは縄文早期、たぶん1万年以上前のもので、オホーツクの「トコロチャシ遺跡」から出土した驚くほど精巧な石器だ。上の写真の左2つは石斧で、これで木を切り倒したのだろう。石斧の性能に疑問を持ってたけど、色々実験をした写真などがあり、直径80cmの木を切り倒したものもあった。これで切ることができるのが分かったが、次は刳ること。これも石斧でおおまかに削れるだろうし、最後は右から2番目の切り刄が美しアールの黒曜石でノミのように削れば、限界まで薄く仕上げることができそうだ。

舷側の板もこのノミで平らにしていき、穴は細く尖った矢じりのような黒曜石をキリとして使えば、正確な円ができるだろうと思う。これの寸法が分からないが、書き込まれた数字から想像するとかなり大きいもののよう。矢じりというより、T字型に丸棒を取り付け、回転させて穴開けしたり、細かな細工に使ったりしたのではないだろうか。左の二つもかなり大きそうなので、矢じりではなく、柄を付けてノミや彫刻刀のような使われ方をしたのではないか。

な~んだやれるじゃん! 石斧の磨製石器は世界的にみると新石器時代に入ってからと言われているが、日本では3万年ぐらいのが発見されているし(たしか)問題ないだろう。

今日は遅めの海。
日本人が海洋民族だったのは間違いなさそうだが・・・

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縄文時代の壁画(訂正:􏱺􏱻􏱼􏵕􏱆􏵖􏵗􏵘􏱺􏱻􏱼􏵕􏱆􏵖􏵗􏵘􏱺􏱻􏱼􏵕􏱆􏵖􏵗􏵘福岡県の古墳􏱷時代後期(􏲄 6世紀􏵙 􏵚)に築造された􏱵敷􏱶(め􏴻ずらしづか)古墳にかかれた􏱸􏱨ものの一部)でアイヌのイタオマプチそっくりな帆を張った舟。舵櫂(練り櫂)は兼用したのか形がそっくりで2本の帆の支柱も同じ。


まだ旧石器時代の舟のことを調べている。初めて船外機付きゴムボートを買ってからすでに30年以上経ち、ボート雑誌の連載などで日本中の海を走り回り、ボートの設計にまでかかわってきたのだから、そうそう簡単に諦められないのだ。4万年前頃にホモサピエンスが日本列島にたどり着いたのは分かる。だけど、3万8000年前に神津島の黒曜石が海を越えて関東まで運ばれたというのがどうもピンとこない。舟が無ければ不可能なことだし、しかも性能のいいものでないとダメなわけだからますます不思議になる。

それに、もともと神津島に黒曜石があると知ってたわけではないはずだから、神津島まで漁に出ていたことになる。ま、わが自宅からも伊豆七島の大島、利島、新島などは見えるから、性能のいい舟さえあれば行ってみたいと思ったし、その後何日かか泊まり、釣りもした。きっと3万5000年前の人も同じで、キャンプを張って漁をするなんてことがあったかもしれない。私も日本半周したボートで神津の先の三宅島三本岳まで出かけたが、小舟で行く島はとても魅力的だけど、一度荒れると半端じゃないし、とても怖くて緊張するもの。それをモーターのない石器で造った小さな帆と櫂だけの舟で行くのだから、ちょっと信じられない。2、3回に一回ぐらい転覆するような舟ではとてもじゃないけど行けないだろう。ということは当時すでに相当な性能を持ってたはずだ。

話は戻るが、前項の「倭人の歴史」を書いた人は「伊藤俊幸」さんと言われる方で、それ以前はこれまた長い「日本人の起源」というHPを作られていた。色々調べていたら、同じような文章に行き当たり、たぶん間違いないと思った。ただ、(日本人の起源)はわりと歴史教科書的、考古学的な検証もあったが、(倭人の歴史)では歴史の常識から飛び出し、日本人の海辺に住む人々の中には日本海や東シナ海を自由に走り回り、中国人や海南のスンダランド(フィリッピンやインドネシアなどが陸続きであった頃の広大な平原)、オーストロネシア語族の人々と交易をしていたというふうに考察するようになっている。


このオーストロネシア語族は豊かな土地で舟の航海術にも秀でていて、インド洋を回り込み、中東やアフリカのマダガスカルまで出かけ、住み着いたとしている。これはDNA、Yの内容分布からそう考察しいているのである。
一般的な現在の日本人のルーツはシベリアから陸続きを南下した人たち、朝鮮半島から渡った人たち、南方から入った人たちの3ルートから来たと人々とされている。だけど、倭人の歴史ではシベリアから南下した人々を原日本人とし、南方からやってきた土器・稲作文化の人を縄文人とし、中国には海を渡る舟がないという中国の史書から、朝鮮からの南下は計算にいれてない。

倭人の歴史に記載されていたかどうか分からないが、このことから少し前の記事、沖縄のサキタリ洞遺跡で2万3000前の地層から発見された釣り鈎は約20000~22000年前にに沖縄に存在していた港川人の確率が高くなってっきた。港川人はその頭や顎の骨格からポリネシア人(オーストロネシア語族)のような風貌で、縄文人のような平らな顔をしていない。日本人のY遺伝子はほぼ8種類で構成されているけど、北海道、関東、関西、沖縄とそれぞれ比率が違い、それらを調べると、どう混血してきたかが分かるのだと。ちなみにアフリカを出たばかりのホモサピエンスのY遺伝子はC、DE、Fだだったよう(自信ないが)。ま、他と交わらず、一つの種で長くいると、Yの内容が限りなく一種に近づくということなのだ。

この項の本題は38000年前、もしくは35000年前に伊豆七島まで出かけて漁をしていたかということ。この黒曜石、関東の日本最古の旧石器遺跡から見つかっているし、時代もぴったりなので、この人たちが採りに行ったか、交流ある人々との交易だったのか。ともかく3万数千年以前から伊豆半島先端から50キロ以上沖合の神津島まで走る舟があったことは間違いない。沖縄から2万3000年より前に台湾方面から海を渡ってきた港川人がいるし、3万5000年は当たり前のように海へ漕ぎ出していたのだろう。また、オーストロネシア人かどうか分からないが、アフリカを出たホモサピエンスは約5万年前に南下してオーストラリアに渡っている。スンダランドとオーストラリアの間は海で隔てられていたから、その頃もうしっかりした舟を造る技術を持っていたのだろう。

しかし、関東で舟造りの技術を持っていたのは北海道へ南下したグループなのか、南のグループなんだろか? 北海道の原日本人(マンモスハンター)はのちに北海道縄文人→アイヌになるわけで、ある時期からすぐれたイタオマチプ(準構造船)を造るようになっているし、それが3万5000年前っだったのだろうか? シベリヤ経由なわけだから、寒さに対応し、毛皮で服や靴、テントを作ったりしてたろうから、器用に舟も作ったかもしれない。

今回は文章が長くなったから、縄文時代の壁画で(訂正:􏱺􏱻􏱼􏵕􏱆􏵖􏵗􏵘福岡県の古墳時代後期(􏲄 6世紀􏵙 􏵚)に築造された􏱵敷􏱶(め􏴻らしづか)古墳にかかれた􏱸􏱨ものの一部)アイヌのイタオマチプそっくりの舟があるので写真はそれを紹介するだけに。舳先に鳥がとまっているらしいが、波除の前後2枚の板と2本の帆柱、練り櫂か舵櫂があるからまず準構造船。波除から明らかに海で使われたものだろう。だけど、どこから引っ張り出したかメモし忘れ、どこの洞窟かとかはっきりした時代が分からない。でもたしか本州のどこかだったような・・・。
3万8000年前に12,13メートルの帆船があった?

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江戸時代に描かれたアイヌの丸木舟と横板を綴った綴り舟。マストを立てると安定性が悪くなるし、強風で折れたり横転の原因となりそうなので、これが正解だろう。この絵は間違ってますね。波は舟の前方から来てますが、帆の風は後ろから。江戸時代でも絵描きはインドア派なのは変わりないようです。

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いま、旧石器時代を考察したいろんな文献や資料を漁っているのだが、「倭人の歴史」という著者不明のしかし、かなり理論のしっかりしたとても難しい文章を読んで、これまで考古学者が言ってきたのと正反対の論陣を張っていてとても驚かされたのだ(名前が出せない理由だろう)。

この方、男性の遺伝子の中のYの地域的変化や女性のミトコンドリアの変化をあげ、その検証に中国の史書、魏志倭人伝などから倭人の記載内容を合わせ実像に迫っている。たとえば最初に、

「中国の史書は、倭人は大海の島から中国に来ると記し、日本書紀とは全く違う歴史を示している。日本の古代史は、日本書紀を基に説明されているが、人やイネの遺伝子分布は、中国の史書と整合する。」

と始まっている。
また、漢代の中国の史書は、外洋を航行する船は倭人しか持っていなかったと記しているし、倭国の位置をとても遠くと記載している。これは倭人が朝鮮半島のすぐ先に九州があるのを知られないためと著者は書いている。また、史書には倭人は舟で来て中国の貴人に貢ぎ物をしたと。ヒスイや黒曜石が中国に渡っているのはその証拠。そして、中国からはイネなどの穀物や堅果類や石製装飾品などを持ち帰っている。

ま、各地の縄文遺跡から出土したものや、中国に渡った品々から考えると本格的な交易が行われていたのが想像される。一部に縄文時代は鎖国状態だったようなことが書かれたものがあったが、それはちょっと信じられないな。

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7000年前の丸木舟。これは湖用で底が浅い。ただ、これができるなら石器で横板も造れるだろうと思う。

しかし、神津島の黒曜石が海を渡って本州へ来たのが、3万8000年前。3万年と記載されてたものもあったようだが、それより後はない。ということは3万8000年前に相模湾や伊豆半島あたりから太平洋へ舟を漕ぎ出していたことになる。たとば相模湾の真鶴からとすると、伊豆大島の波浮港まで33マイル(1NM=1,85km)、大島から新島まで20マイル、新島から神津島まで10マイル(ほど)だから、合計60マイルちょっと。アバウトに110キロほど。これだけ走り、しかも最低でも100キロぐらいの黒曜石を積んだだろうから、小さな丸木舟ではまず無理だろう。前回紹介したアイヌの小さい丸木舟ならまったく凪なら可能だろうが、ちょっと荒れただけでまず転覆する。

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左の2m以上と長いのは江戸時代のアイヌ舟の一番後ろの人が手にしている舵だと思われる。練り櫂ではないだろう。

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12000年〜5000年の鳥浜貝塚から出土したヤブツバキで作った漆塗りの櫛。これほどの工作ができるなら横板をけずることぐらいできるはず。また、漆はそもそも日本に自生しいていないもの。

私は縄文人見習いさんのブログに載っていた2mを超える長い櫂と、7000年前の丸木舟、12000~5000年の鳥浜貝塚から出土した見事な工作のヤブツバキ製の櫛、江戸時代に書かれたアイヌの丸木舟と横板の綴り舟での航海図から、石器でも仕上げの差はあれ、強度のある大きな舟が造れるのではないかと思った。ま、舟自体は遺跡から出土しないけど、長い櫂はアイヌ舟の舵とそっくりで、他に使いようがないのだから、これだけで結論してもいいように思える。

アイヌの帆かけ舟のように風が出ればゴザのような帆を張り(マストを立てると安定性が悪くなるから、この方式がベスト)、凪なら4、5名の漕ぎ手で必死に漕ぐ。全長10m以上、できれば12,13mあれば波をまたぐような走りもできるし、中国にも行けるだろう。そして、時速6、7〜10キロぐらいの速度は出せたのではないか。

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これはアイヌの丸木舟の舟敷きに横板を綴った準構造船で、かなりしっかり美しく造られているが、最初はもう少し荒っぽかったかもしれない。でも波に強ければいいのだ。

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古墳時代に突然姿を見せた20人ぐらい乗れそうな構造船。じゃーこの前身はどんなものだったのと・・・。

竹で作った筏や大きな葦船の可能性もないことはないが、どちらも速度が出ないから、海を自由に走り回ることができないだろう。それと、のちの古墳時代に唐突に20人も乗れそうな大きな構造船の埴輪が登場し、じゃー、これの前はどうなってたんだ、と考えると、丸木舟と横板を綴った準構造船が進化したとしか思えないではないか。

ま、縄文人は農耕民族ではなく、漁労や交易、狩猟や採取、栽培をする多様な民族だったのだ。きっと。それと、2万年前は寒くて今より海面が120メートル下だったことがある。海岸にあった旧石器時代の生活痕は海の底に眠っているともあった。多くが海辺に住んでいただろうから、遺跡は海の中ということ。ま、一を見て十を語ってみました。