湯河原・真鶴の野生生物を観察し、写真に記録すること。
3万8000年前に12,13メートルの帆船があった?

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江戸時代に描かれたアイヌの丸木舟と横板を綴った綴り舟。マストを立てると安定性が悪くなるし、強風で折れたり横転の原因となりそうなので、これが正解だろう。この絵は間違ってますね。波は舟の前方から来てますが、帆の風は後ろから。江戸時代でも絵描きはインドア派なのは変わりないようです。

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いま、旧石器時代を考察したいろんな文献や資料を漁っているのだが、「倭人の歴史」という著者不明のしかし、かなり理論のしっかりしたとても難しい文章を読んで、これまで考古学者が言ってきたのと正反対の論陣を張っていてとても驚かされたのだ(名前が出せない理由だろう)。

この方、男性の遺伝子の中のYの地域的変化や女性のミトコンドリアの変化をあげ、その検証に中国の史書、魏志倭人伝などから倭人の記載内容を合わせ実像に迫っている。たとえば最初に、

「中国の史書は、倭人は大海の島から中国に来ると記し、日本書紀とは全く違う歴史を示している。日本の古代史は、日本書紀を基に説明されているが、人やイネの遺伝子分布は、中国の史書と整合する。」

と始まっている。
また、漢代の中国の史書は、外洋を航行する船は倭人しか持っていなかったと記しているし、倭国の位置をとても遠くと記載している。これは倭人が朝鮮半島のすぐ先に九州があるのを知られないためと著者は書いている。また、史書には倭人は舟で来て中国の貴人に貢ぎ物をしたと。ヒスイや黒曜石が中国に渡っているのはその証拠。そして、中国からはイネなどの穀物や堅果類や石製装飾品などを持ち帰っている。

ま、各地の縄文遺跡から出土したものや、中国に渡った品々から考えると本格的な交易が行われていたのが想像される。一部に縄文時代は鎖国状態だったようなことが書かれたものがあったが、それはちょっと信じられないな。

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7000年前の丸木舟。これは湖用で底が浅い。ただ、これができるなら石器で横板も造れるだろうと思う。

しかし、神津島の黒曜石が海を渡って本州へ来たのが、3万8000年前。3万年と記載されてたものもあったようだが、それより後はない。ということは3万8000年前に相模湾や伊豆半島あたりから太平洋へ舟を漕ぎ出していたことになる。たとば相模湾の真鶴からとすると、伊豆大島の波浮港まで33マイル(1NM=1,85km)、大島から新島まで20マイル、新島から神津島まで10マイル(ほど)だから、合計60マイルちょっと。アバウトに110キロほど。これだけ走り、しかも最低でも100キロぐらいの黒曜石を積んだだろうから、小さな丸木舟ではまず無理だろう。前回紹介したアイヌの小さい丸木舟ならまったく凪なら可能だろうが、ちょっと荒れただけでまず転覆する。

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左の2m以上と長いのは江戸時代のアイヌ舟の一番後ろの人が手にしている舵だと思われる。練り櫂ではないだろう。

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12000年〜5000年の鳥浜貝塚から出土したヤブツバキで作った漆塗りの櫛。これほどの工作ができるなら横板をけずることぐらいできるはず。また、漆はそもそも日本に自生しいていないもの。

私は縄文人見習いさんのブログに載っていた2mを超える長い櫂と、7000年前の丸木舟、12000~5000年の鳥浜貝塚から出土した見事な工作のヤブツバキ製の櫛、江戸時代に書かれたアイヌの丸木舟と横板の綴り舟での航海図から、石器でも仕上げの差はあれ、強度のある大きな舟が造れるのではないかと思った。ま、舟自体は遺跡から出土しないけど、長い櫂はアイヌ舟の舵とそっくりで、他に使いようがないのだから、これだけで結論してもいいように思える。

アイヌの帆かけ舟のように風が出ればゴザのような帆を張り(マストを立てると安定性が悪くなるから、この方式がベスト)、凪なら4、5名の漕ぎ手で必死に漕ぐ。全長10m以上、できれば12,13mあれば波をまたぐような走りもできるし、中国にも行けるだろう。そして、時速6、7〜10キロぐらいの速度は出せたのではないか。

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これはアイヌの丸木舟の舟敷きに横板を綴った準構造船で、かなりしっかり美しく造られているが、最初はもう少し荒っぽかったかもしれない。でも波に強ければいいのだ。

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古墳時代に突然姿を見せた20人ぐらい乗れそうな構造船。じゃーこの前身はどんなものだったのと・・・。

竹で作った筏や大きな葦船の可能性もないことはないが、どちらも速度が出ないから、海を自由に走り回ることができないだろう。それと、のちの古墳時代に唐突に20人も乗れそうな大きな構造船の埴輪が登場し、じゃー、これの前はどうなってたんだ、と考えると、丸木舟と横板を綴った準構造船が進化したとしか思えないではないか。

ま、縄文人は農耕民族ではなく、漁労や交易、狩猟や採取、栽培をする多様な民族だったのだ。きっと。それと、2万年前は寒くて今より海面が120メートル下だったことがある。海岸にあった旧石器時代の生活痕は海の底に眠っているともあった。多くが海辺に住んでいただろうから、遺跡は海の中ということ。ま、一を見て十を語ってみました。


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コメント
この記事へのコメント
「海のヒスイ・ロード」を航海してみたら、航海期間の半数以上が潮も風に北から東寄りと航路に逆行していました。
アイヌ式のガマ製の横帆では間切る事もできないでしょうから、帆船は存在したと推測してはいますが、実際にどんな帆かと思案中・・・民俗例から言えば、ポリネシア型のラテンセールが丸木舟には都合が良いとは思うのですが、これも少なくとも登場は二千~三千年前・・・何かアイデアあればご教示お願いします!
単純に往路は手漕ぎ、帰路は帆走だった多能性もありますね。
考古学者が「海のヒスイ・ロード」を語る際には、北前船の民俗例を取り挙げるのですが、北前船登場以前の江戸時代初期までの大型船は船型と帆の性能が悪く、難破する事も多かったようです。
因みに勾玉の祖形らしきものは六千年前くらいから糸魚川で作り始められ、初期のものは割れた玦状耳飾りのリメイク品であったようです。ある考古学者によると玦状耳飾りは中国から渡来したと推測され、何らかの交流はあったのだろうと語っていました。
2016/10/02(日) 18:15 | URL | 縄文人(見習い) #-[ 編集]
仲間のヨットも風のないときに走ることの方が多く、機走ばかりしています。なので、半分以上漕いでいたのではないでしょうか。10人乗り、半数が2時間ぐらい漕ぎ交代する。そんなことが思われます。

アイヌの準構造船、横は幅が狭いのでマストは危ないでしょうね。しかも石器で造るから、基礎もあぶないし。

この前の沖縄の釣り針は2万3000年前で港川人より古いし、神津島の黒曜石は3万8000年前。いくらなんでも成功率50パーセント以下の船旅はしないだろうから、それなりの装備だっただろうと想います。

「倭人の歴史」これまでの歴史観がひっくりかえりますが、ちょっと読んでみてください。他の歴史書も比較のため読んでますが、なかなかのもんです。
2016/10/02(日) 23:29 | URL | take隊員 #-[ 編集]
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